Vol.1 karf History 〜カーフスタイルができるまで〜
創業から今年で35年を迎えたkarf。
創業当時の話からこれからのモノづくりに思うことなど、代表の島田夫妻にスタッフがインタビューいたしました!
独立時の話、家具やインテリアに込めた思いなど、普段忙しくてなかなか聞くことができないことをたくさん話していただきましたので、今回からシリーズにして公開していきたいと思います。
「karf History 〜カーフスタイルができるまで〜」今後のラインナップは以下の通りです。
Vol.2 1990年代 北欧スタイルへ
Vol.3 普遍であること
Vol.4 デジタル時代のモノづくりに思うこと
Vol.5 ビンテージ家具とBlackboard
Vol.1 1980年代 創業と初期のオリジナル家具
スタッフ:それでは早速、創業のきっかけについて教えてください。
(島田代表:以下、島田)
実は、僕はもともと家具が大好きだったわけではなかったんです。
大学卒業時は確とした職業感を持たずに就職してしまったのですが、その中でいろいろ経験していくうちに段々と『自分が本当に興味を持って一生できる仕事がしたい』と思うようになって、行き着いたのが家具だったんです。そして20代で家具工房の門を叩いたわけです。
工房では無垢材を使って家具を作っていたんですが、親方が工芸的なものが好きな人で、耳付きの欅(けやき)の一枚板を使ったテーブルや、木の節(ふし)を活かしたものなどを作っていて。作った家具を発表する場は銀座のギャラリーでの個展でしたね。
そこは基本的にオーダー家具の依頼が来るのを待つスタイルだったので、あまり仕事も多くなくて。だから設計事務所さんなどに訪問営業してオーダー家具の注文を頂いていたんです。
当然のことながらオーダーメイドの家具はお客様主体なので、自分が「こうしたほうがいいのに」と思っても、なかなか反映されないんですよね。だから次第に自分の中で、“注文に合わせていくモノづくり”に違和感を覚えるようになって、だったらオリジナル家具を作って「自分たちのスタイルはこれです!」と、打ち出してみようとなったんです。それが創業のきっかけですね。
(島田幾子さん:以下、幾子)
当時は今みたいに家具のデザインが多くなくて、どれもこれも昔の婚礼家具のような重厚感のあるものしかない中で「自分たちが欲しい家具って何だろう?」と向き合った時に、まわりには欲しいと思える家具がなかったんですよね。それで『自分たちが欲しい家具を作ろう!』となったんです。
そうしたら今度は作った家具を見せる場所が欲しくなって、それで店舗を借りたんです。それまではずっと事務所みたいなところで島田が一人で作業していたんですよ。
洋服屋さんに納めるディスプレイテーブルをアンティーク仕様にするためにその事務所に持ち込んで、工具でトントンやって、ワックス塗って、塗料で頭がフラフラになりながら作業していたこともありましたね。
私はそこで電話番して、島田は外に営業に行ってという感じで、なんだか懐かしいです。
(島田)最初の頃は、米軍基地の軍人住宅に備え付けられていたような、ニュートラルでシンプルな家具を模倣して作っていたんですが、いざ本当のオリジナル家具となってみると、意外と難しくて。
それまでデザインの勉強をしていたわけでもなかったのでアイデアも全然浮かんでこないですし、だからいろいろな物やお店などを見て歩いたり、写真を撮らせてもらったりしながら勉強しました。
(島田)当時、我々の上の世代である団塊の世代は、欧米に対する憧れやそんな暮らしを手に入れたいという人たちが多かったので、僕らもそれに影響を受けていましたね。実際にアメリカやイギリスに行って、古いものを見て歩いたりもしました。
その時はクラシックやアンティーク、カントリースタイルといった様式のあるものが評価されていた時代で、古い物のリプロダクト的なアプローチでもあったんでしょう。パイン材という素材もそうですし注目度も高かったです。
(幾子)私も島田も西洋の図書館にあるような棚や、図書カードを入れる引き出しがいっぱいある事務機器的なものが好きで、それらをオリジナルの家具に取り入れてデザインしていました。
(島田)あの当時は、家具屋さんに並んでいる家具と言えばツルツル・ピカピカのウレタンで固めたような量産家具が大半でしたね。戸建ての各家庭には応接間があって、そこで使う応接セットの家具も重厚感があるものばかりで。
でもそれと同時に一部の小さな家具工房や若い職人たちがベーシックな家具を作り始めていた時代でもありました。
昔は今みたいに情報や家具のバリエーションも豊富ではなかったので、実際目にできるものは限られていましたね。若い頃に旅したアメリカには既にヨーロッパの流れを汲んだアメリカのアンティークと呼ばれる家具がありましたけど、日本ではまだまだそういうものを見る機会も場所も少なくて。
そもそも日本の場合は、生活様式が畳にコタツでしょう。当時、国内で家具の勉強をしようと思ったら民芸家具や横浜か神戸の洋家具のようなものしかなかったので苦労しました。
(幾子)私も、最初から家具がすごく好きだったわけではなくて、やりながら好きになっていったという感じですね。
もともと、洋館やそこに置いてあるような古い家具が好きで、クタってもかっこいい、古くて素材感のあるものに惹かれていて。だから自分たちが作るオリジナル家具もそうなりたい、というのはずっとありました。
この仕事を始める前はインテリアや家具の仕事は全くしたことがなくて、せいぜい部屋の模様替えくらい。(笑)古い建築物が身近にあるような環境で育ったこともあって、古い家具も好きでした。
子供の頃に通っていた小学校も木の廊下があるような古い校舎だったんですが、今思うとすごい建物だったんだと思います。
そのような環境で育ったので、いわゆる明治とか大正ロマンみたいな建物がとても好きだったんです。多分、そういうものから影響を受けていたんだと思います。
(島田)幾子さんは街育ちだからね。北九州市の文化的な環境に囲まれて、教育もお茶とかお花とかも習っていたんだよね。僕は茨城ののどかなところで育ったんですが、家の周りには何もないところで。ガチガチの因習と古典的な考えが根強くありましたからね。それでいて高度成長期に建てられた家や、量産された家具に囲まれたような暮らしで、日本の伝統と西洋と中途半端なものが混じり合ったような感じでした(笑)そんな中でも自分自身のアイデンティティは何か?と考えたときに、『モノ』に対する興味感心がすごくあったことに気づいて、特に家具のディテールが気になっていましたね。
(幾子)島田は細部にこだわりがあるんですよ。「ここの厚みは…、ここのジョイントが…、ここの金具がかっこいい…」みたいに。それで昔、恵比寿にパーツショップもオープンしていたくらいです。私はどちらかというと空間そのものや建物が好きで、そこから家具に入ったので、お互いその辺が逆な気がします。
私はアルミや木などの素材も好きで、どんな家具が好きかということよりも、その空間にどう素材を組み合わせるかをよく考えますね。だから、木だけ金属だけではなく、ファブリックや焼き物が加わることで絶妙なバランスが完成するんです。そこに心地良さを感じます。
ひとつの素材で固めた空間はちょっと息苦しく感じてしまうので、ディスプレイをする時にも素材同士が偏らないように気をつけています。
(島田)家具の世界に入ってはみたけど、家具の勉強をしていたわけでも、材料の勉強をしていたわけでもなかったので手探りでしたね。最初の頃は「自分たちにふさわしいものってなんだろうって」と模索の日々で。
そんな中、アメリカやイギリスを旅した際に目にした、図書館や博物館などで使われている本棚や図書カードを入れるチェストなど、実用性重視で作られたシンプルな家具にとても惹かれていったんです。
それとイギリスのテーラーで使われていたシャツキャビネットなんかもそうですね。そういった什器として作られたものを住宅の中でも使いたいと思うようになっていきました。
イギリスは日本と文化も違うので街や建物、家具・インテリアには作られた背景がひしひしと伝わるものがありましたよ。歴史の深さというか、奥深さというか。ただ素直に、凄いなと思いました。そういった西洋の家具の影響は大きかったです。
それから、家具との付き合い方も日本人とは違うことも発見で。その頃の日本人の感覚だと、テーブルの上にはガラスを載せたり、ビニールのシートを掛けたりして、なるべく傷がつかないように使うようなところがあったんですが、西洋はそうじゃなかった。ちゃんと道具として使われていて、そこでお茶したり、食事したり、素材の経年変化も楽しんでいたのが印象的でしたね。
(幾子)『時代を経ても勝負できる』そんな家具を作っている日本の家具メーカーが、当時は少なかったんですよね。
私たちがオリジナル家具を作り始めた頃になって、アンティークやビンテージ家具などがブームでしたね。
そういう流れもあって、創業当初のオリジナル家具には北欧の「ほ」の字もなかったんですよ。1990年代頃かな。その頃はどっぷりイギリス・ヨーロッパ家具のクラシックなテイストで、それから何十年かして北欧の時代が来るんです。
小さな事務所からのスタートだったというお話が、アメリカのIT企業のスタートアップ時を彷彿とさせ、話を聞いていたなんだかワクワクしました。
北欧家具の流れを汲んだ今のカーフの家具以前が、パイン材のカントリースタイルやクラシックスタイルだったということをご存知の方はもしかしたら少ないかもしれませんね。
次回は、現在のカーフスタイルになるまでのお話をご紹介したいと思います。
お楽しみに♪